ヨシピーナ・ホチェヴァル

 

ヨシピーナ・ホチェバル(Josipina Hočevar)は1824年スロベニアのラドヴリツァ(Radovljica)という街で、レストランを経営していた大変裕福な家庭に生まれました。彼女は聡明で、働き者で、夫とともに手がけたビジネスを急成長させ、手にした多くの財産を他の人のために使ったという、まるで聖人のような、かつパワフルな女性です。

 

 

 

幼少期


両親はラドヴリッツァでレストラン経営に忙しい中、ヨシピーナは祖父母が住むクラン市内にある、ストラジシュチェというところで幼少期のほとんどを過ごしました。

 

ストラジシュチェの景色(写真:Wikipdia)
ストラジシュチェの景色(写真:Wikipdia)

クランでヨシピーナは学校に出席するようになり、12歳の時はシュコフィヤロカのウルスラ学校(修道女さんが通う学校)に2年通います。学校で彼女は知的好奇心が強く、聡明で、人気者であったそうです。

 

彼女は勉強家でたくさん本を読み、ドイツ語は母国語のスロベニア語と同等に扱えるレベルまで上達させ、一生懸命働くことが大好きだったそうです。

 

学校卒業後は、実家に戻り家業を一生懸命手伝い、18歳まではクランの祖母のお世話をしたそうです。

 


結婚そしてサポーターとして


そうこうしているうちにヨシピーナは1842年、18際の時、マルティン・ホチェバル(Martin Hočevar)という14歳年上の裕福なビジネスマンと結婚し、クロアチアの国境に近い街、クルシュコ(Krško)という街へ移り住みます。二人の家は小さな庭、倉庫などがありましが、状態はよくなかったそうです。しかし二人はすぐになんとか家を整え、街でレストランを経営します。経営はすぐに軌道に乗り、レストランは成功したのです。当時女性が表立ってビジネスに参加することは稀でしたが、彼女は非常に優秀なサポーターだったようです。

 

1860年、二人はオーストリアのグラッツという街へいき、老朽しほったらかしにされていたホテルの再建に乗り出します。そのホテルは「Hotel Zur Stadt Triest」という名前で、これまたすぐに利益を出しました。しかし二人は1862年ホテルを売却しクルシュコに戻ってくるのです。

帰郷後、マルティンはビジネスマンとして、ワインショップ、ワイン畑、建築など様々なビジネスを展開し、ヨシピーナと一緒に多くの財産を築きます。二人は汚いことはせず、真っ当なビジネスを展開していったのです。

 


チャリティー活動


ヨシピーナとマルティンはお金持ちでしたが、二人の生活は質素倹約そのもので、贅沢はもちろん無駄使いや無闇にお金を使いことはありませんでした。二人に子供はいませんでしたが、その分他の子供たちへ寄付をしました。

 

ヨシピーナは当時のホスピスや孤児院への寄付やクルシュコの学校にも大変気を配っていました。1855年から1875年、少女が普通の教育ができなかった時代に、彼女はクルシュコに女子教育の学校を建てたのです。

 

マルティンも若い時から教育が重要と思っていたので、クルシュコにいわゆる身分の高い人用の学校の建設に力を貸しました。教育はドイツ語で行われるよう要請し、教師も高度なドイツ語を求められたようです。母国語教育には消極的だったようで、それはそれでスロベニアにとっては問題だったかもしれませんが、教育が大事だという考えを共有した伴侶がいることは、二人のビジネスの成功や信じられないほど教育の貢献に繋がったのでしょう。

 

またヨシピーナは姉妹のドラルコと一緒に故郷ラドウリッツァに教師たちの家を寄贈し、また教師たちをサポートする基金を設立します。この活動でヨシピーナはラドウリッツァの栄誉市民の称号を授与されます。

 


晩年


1866年、マルティンがこの世をさりました。彼の残した莫大な遺産はヨシピーナに受け継がれましたが、彼女は精力的に寄付を続けるのです。

 

1891年、彼女は新しい教会建設のためのスポンサーになります。そこには教会、お墓、修道院も一緒にクルシュコに建てられました。1899年には夫の銅像がクルシュコに建てられ、さらにヨシピーナはクルシュコの病院にも寄付を続けます。さらに、再び故郷ラドウリッツァに、公共の配水システム建設のために寄付をします。その功績が讃えられ、ラドウリッツァのリンハルト広場には彼女の銅像が建てられたのです。

 

ヨシピーナの銅像(ラドヴリッツァ)
ヨシピーナの銅像(1908)。彼女は少年が持ってるボードに描かれている女性です。当時は女性の銅像が建てられることはまずなかったとか。

遺言


ヨシピーナは1911年に死去。クルシュコで葬儀は盛大に行われました。彼女は亡くなる1年前に遺言を書いています。それには莫大な遺産の振り分けが記されていました。

 

遺産の多くは甥のKarl Mulejに相続されることに。その他は彼女と夫の親族へ振り分けられました。さらに彼女はクルシュコのチャペル建設のための寄付、ラドウリッツァの孤児院、夫と二人で建てた財団の奨学金へ当てるよう指示しました。さらに彼女の遺産の残りは医療機関、女性のための支援、そしてメイドとして働いていた女性の援助のために使われたそうです。